2022/05/07 19:40

大手町ビアコラム 第四回 「ビールと航海」

大手町厨房では「大手町ビアコラム」と題するコラムを月替わりでメニューに掲載しております。

筆者はビールを楽しく紹介することで知られるヱビスビール記念館前館長の端田晶氏です。

ここでは掲載後のアーカイブをお読みいただけますが、最新号は是非お店でお読みください。

第四回 2022年4月

「ビールと航海」                      作家・ビール研究家 端田 晶

 春は船出の季節です。ここ大手町でも多くの新社会人が、社会の荒波に負けじと新しい航海に乗り出しています。新世界を目指す船乗りの冒険心こそ、太古の時代から人間の進歩の原動力でした。オーストロネシア人、北欧のバイキング、あるいは大航海時代の英雄たち。彼らが新たな地平を切り拓いたのです。

 航海は新たなビールも生み出しました。その典型的な例がインディア・ペール・エール、通称IPAです。大航海時代から帝国主義の時代に変わると、アジアやアフリカの植民地化が進みます。その経営のため多くの西洋人が移住し、一緒に大量のお酒も持ち込まれました。その多くはワインやウイスキーなど、長期保存が可能で、赤道直下の高温にも耐性があるものでした。一方、ビールは低アルコールで変質しやすく、長距離輸送には不向きでした。

 しかし、英国人には国民酒であるビールが必要です。そこで醸造家たちは長距離輸送が可能な強いビールの開発を目指します。まず英国海軍の要請により、凍結させて氷だけ取り除くという方法で長持ちする濃縮ビールが完成しました。しかしインド洋上の高温では、あえなく劣化。これで英国海軍はビールを諦め、ラムに砂糖とライムを加えて水で割った酒「グロッグ」を採用します。これは、飲み過ぎてフラフラになる「グロッギー」という言葉の語源になりました。ライムのビタミンCは壊血病予防に有効で、ここから英国船は「ライム・ジューサー」と呼ばれます。一方、植民地経営のためにインドに入植した人々は諦めませんでした。生水が飲めない土地では、ビールだけが絶対安全な水分だったからです。

 一七九十年代、ロンドンのボウ醸造所のジョージ・ホジソンが、ホップとアルコールの抗菌力を活用したIPAを創り出しました。赤銅色や琥珀色で麦芽の旨味たっぷり。強い苦みとホップ香、アルコール度数の高さで知られる上面発酵ビールです。煮沸工程でのホップを増量し、さらに樽詰め直前にもホップを追加しました。この方法はドライホッピングと呼ばれ、苦みやホップ香を強烈にして抗菌効果を強めます。アルコールを高めるためにはプライミングシュガーと称する大量の砂糖を補います。樽でも砂糖を足すことで、航海中も酵母は発酵を続け、その間は他の菌の増殖が抑制されます。

 ホジソンの成功は、英国ビールの中心地バートン・オン・トレントの醸造家たちを刺激しました。彼らの造ったIPAは、バートンの硬水のおかげでホップの苦味の切れが良く、これもまた好評を博します。どちらも輸出専用でしたが、一八二七年に突如国内の飲兵衛の目に留まります。難破した船に積まれていたIPAが回収され、リパプールで競売に掛けられたのです。こんなにガツンとくる美味いビールがあったのか。大評判はすぐロンドンに届いて人気となりました。難破のおかげでIPAは世に出たのです。

 ところで大手町厨房には「マリナーラピザ」があります。マリナーラとは船乗り風。ナポリの船乗りの好物だったとか。魚介系かと思いきや、トマトソースのシンプルなピザです。船の上で簡単に調理できますものね。大手町厨房ではアンチョビを載せ、ピザ用チーズの上にパルメザンチーズも加えてアクセントを付けています。溶けたチーズの熱々感が、冷たいビールとベストマッチです。

 新社会人の方、新しく何かに挑戦する方は、このピザを食べて船乗りの心意気で取り組みましょう。                   -了-